ひな人形が、現在のような形で一般に飾られるようになったのは、江戸時代少し前からといわれる。
元来は人の形を書いた紙で体をなで、ケガレや ワザワイをこれに移し取って川に流した。
この人形によるおはらいは三月三日だけとは限らず、一 月、五月、八月、そして九月などにも行なわれたが、三月三日は中国で川に出ておはらいをする風習があったため、これが輸入され、上流社会の問ではこの日の行事が盛んになった。
江戸時代にはいってからは、三月三日はいわゆる五節供の一つとして、いまの祝祭日のようなことになったから、この日のひな祭りはいよいよ固定するようになった。
ひなそのものは、すでに平安時代から上流社会の間で、ひな遊びというものがあって、人形や道 具類は一通りそろっていた。
三月三日のひな祭りには、これが使われるようになった。
このひなは、少年、少女を形取った一対のものだったが、 それが次第に変化して内裏びな一対になり、随臣、三人官女、五人ばやしとふえてきたのは江戸時代の後期になる。
内裏びなは、むかしは男びなを向かって右に飾った。
これは、日本では古くは左尊右卑だったので、 その思想が残ったものだが、昭和の初め、天皇・ 皇后の写真と同じ位置にすべきだという意見が出て、東京のひな人形卸商組合が、男びなを向かって左にすることを決めてから、そのまま現代にいたっている。

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