八月二十二日といっても、ピンとくる人は少な いだろう。
だがこの日は、日本の芸能史上でなかなか大きな意味をもっている。
初めて芝居の男女共演が許可された日なのである。
演歌「オッペケペー」の作者であり、また新派劇の源である壮士芝居の創始者の一人として有名な川上音二郎の妻の貞奴。
彼女は本名を、さだといい、日本橋の葭町で奴と名乗って芸者をしていたが、川上と結婚して舞台を踏み、日本における女優第一号といわれている。
明治の前期は「男女七歳にして席を同じゅらせず」の思想が根をはって、女優が許されなかったものだが、明治二十三年八月二十二日、時の田中警視総監が初めて男女共演を許可したのである。
その時の通達が、またおもしろい。
欧州各国にもその例あるをもって、男女俳優混合して興行するも不問に付すべき筈につき、此旨心得べし。
そして日本最初の女優として、奴と、同じ葭町の芸者だった米八の名前もあげられている。
貞奴は川上音二郎と二人で、新派の源を作った わけだが、明治二十七年、日清戦争がはじまる と、戦争劇を上演したりして時流に乗り、二十九 年七月には、東京・神田三崎町に「川上座」を建てたが、間もなく人気は下火となってしまった。
そこで座員十九名をつれて、アメリカ、イギリス などを回り、明治三十六年に帰国してからは、あちら仕込みの「ハムレット」や「オセロ」などを上演して人気を回復した。
明治四十一年、貞奴は女優養成所を作って後進を指導したが、その第一期生の中からは森律子、村田かく子、初瀬浪子など、後年の新派名女優といわれた人たちが育った。
この女優養成所は一年きりで、翌四十二年には帝劇付属技芸学校として、生徒を帝劇にゆずってしまった。
その後、川上音二郎は明治四十三年に大阪・北 浜に「帝国座」を建てたが、翌四十四年に同座で死亡した。
貞奴のほうは、大正、昭和と三代を生きて、第二次大戦の終わった翌年の昭和二十一年 に七十三歳で亡くなっている。

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